提言(反論、批判大歓迎)
   
「あ・は・き法」との軋轢に埋没し、既得権益を失うな!!(その4)



        前回「一人の資格者の下に複数の無資格者を貼り付け 『あはき柔整類似行為』 を行わせる手法」を紹介
     し、それが俗に言う所の大手業者に多い 、と付け加えた所数件の反響が寄せられた 。又 、この時期のホー
     ム・ページへのアクセス数も相当な数に上った様だ。
      その反響の大半は、所謂 「大手」 内で働いている、或いは ○○ 整体学院等で 「資格」 を得て開業する為
     に勉強中の方々からの、相談的御意見だったが、一部には「余計な事を書くな。訴えるぞ」等と言う、明らか
     に 「大手」を自認しておられる筋からのクレームもあった。尤もこの方々も、何故余計な事なのか、何を訴える
     のかに付いては一言もない。
      当方は昔より訴訟大好き人間であるから、受けて立つのは我が意を得たりだが、その前に訴訟に使えそう
     な今一つのジャブを出しておこう。其れは所謂学校屋に依る、資格商法の手口についてだ。
      療術業界 (医業類似行為業界)に学校屋と呼ばれる連中が活動を始めたのは 、例の差し戻し審判決を最
     高裁が出した昭和35年以降の事である。
      即ち昭和22年末の療術禁止以来、療術は禁止時に開業届けを提出して営業していた療術師(届出者と言
     う) 以外は 、業としての療術は行えなくなり 、無資格者が当該療術行為を行えば、当該事実のみで処罰対象
     とされた 。一方の届出者療術師の方にも3年間の転業期間を与え、それ以降は療術が日本国内に存在し得
     なくなる措置が取られていた訳で、孰れにしても療術の命運は風前の灯火……。
      従って本来ならば、昭和25年末を以って療術は其の終焉を迎える筈であったのだが、届出者と世論の正義
     は国家のごり押しに屈しなかった。届出者達は昭和5年の東京警視庁令 「療術行為取締規則」 と其の敷衍以
     来、初めて団結した組織を作り延命の為邁進したのである。
      此の届出者達の組織が今も活動を続けている「全国療術師協会」略して「全療協」である。
      全療協の実体や其の業績 、そして現在等に付いては後に触れるが 、同協会は療術の効能を理解していた
     国会議員等に働き掛け、「あはき」の圧力に屈する事無く、療術の終焉を3年延長させる事に成功する。そして
     此の延長成功が、昭和35年の最高裁差し戻し判決を導き出す起爆剤と成る訳で、同延長は正に療術業界の
     「我が闘争」の開幕(正確に言えば第2幕)でもあった訳だ。
      此の3年延長は 、全療協と民間等有志の強力な連動が奏功したのだが 、其の中で見逃せないのが民間有
     志の中には 、所謂学識経験者や医療機会社更には政財界名士達が混在していた事実であり 、それ等の名士
     や民間有志が等しく療術の効能を認知し、後世の為にも存続させねばならぬとの信念に燃えて居た事である。
      現実に療術療法が有害無益なものであったとしたら、「公序良俗に反する」の一言で片付けられて居た筈であ
     る。しかし大正から昭和の初期にかけて忽然と現れ、瞬時に大衆の支持を得、遂には警視庁令迄を引き出すに
     至った療術の効果効能は、矢張りそれだけの評価すべき力量を秘めていたと解釈せざるを得ない。
      其れをごり押しして潰そうとした国家。GHQが目した、日本医療の近代化(再西欧化)に起因する差し金とも言
     われるが、一方で療術禁止時の答申中には 、GHQ(米国)側諸国のカイロプラクティック等の現状に配慮した擁
     護的表現も散見出来る 。言わばその様な矛盾の中での療術禁止措置だった訳で 、其処にも現在迄続く行政の
     無責任対応が浮き彫りとなって来ている。
      さてその辺りはこれ位にして、何れにしても全療協軍団は3年延長に続き、更に3年毎の延長を勝ち取って行
     く。即ち期限付きで数回、療術は生き延びた。そして昭和35年の最高裁差し戻し判決が救世主の如く下される。
     それに呼応するが如く現れたのが「学校屋」達であった。その意味では学校屋は最高裁判決の申し子であるとも
     言える。(以下続く)