提言(反論、批判大歓迎)
「あ・は・き法」との軋轢に埋没し、既得権益を失うな!!(その2)
昭和5年11月の「療術行為取締規則」と称する東京警視庁令。
明治23年には現在の医師法の原型が制定され、「あはき法」 に続き大正年間には柔道整復師法の原型が
公布される 。つまりこれらの法律に従って 、明治政府が目指した所の、西洋医学主流の医療体系とそれに対
応(?)する民間療法(東洋医学)の体制が曲がりなりにも確立された。
其の後10年近くを経ての警視庁令である。 しかもその名称は 「療術」 。旧来認知されていない療法の登場
だ。しかもその庁令は所謂「届け出制」を採っていた。
即ち 、医師の如く専門の学校での勉学の後に国家試験を受け 、それに合格して医師免許を得るのでも無く、
徒弟制度或いは其の一部に専門学校的実習教育を経由し、伝承的に資格を取得した「あはき」とも制度を異に
する届け出制「療術」。
現実には此の庁令が療術の社会的認知に先鞭を付けると共に、今日の業権論争の原点とも成ったのだが、
其れはさて置き庁令発布迄の行きさつを前提として、その経緯を再認識していただかなくては成らない。
「医師法」「あはき柔整法」の業権範囲は各々の法律中に明記され、相互の区分を確立している。尤も現実に
は医師の業権範囲がオール・マイティ (全包括的) で、其の御零れ的業権範囲が 「あはき」 に附与されている
実態は現在と変らないのだが、何れにしても両方の制度により、西洋、東洋(若しくは民間)療法の並立は曲り
なりにも歩みだした訳だ。
所が大正後期から、其の何れにも組しない療法が輸入され始めた。即ち医師でも無く、「あはき」 資格者でも
無い、所謂無資格者達が当該輸入療法で施術行為を行い始めたのである。そして昭和初期からは国産の新療
法が此れに加わって来る。
其の先鞭を付けたのは 、米国の「カイロプラクティック」と「オステオパシー」、次に京都大学が移入したと伝え
られる独逸の「光線療法」 、そして我が国の至宝伊藤賢治の開発に依る「超短波電気療法」と後発した「低周波
電気療法」である。
それ等が旧来の法体系中に包含された療法と違っていたのは 、 「カイロプラクティック」 及び 「オステオパシ
ー」 には現在尚異論の在る所だが 、「光線療法」と「電気療法」に関しては施術(治療)方法が既存の資格法に
抵触しない点であり 、前2者にした所で施術目的の確立に至る理論が医師法とも「あはき」法とも違う 。当該差
異は向後細述するが、何れにしても前述した新療法は、其の何れもが取り締まりの範疇外、若しくは取り締まり
に困難を要するものであった。
即ち、此れは当然の事だが 、摘発等をする以上当該施術行為が何に違反しているのかを明示する責務が司
直若しくは行政側に存する。少なく共、何の論拠も無く取り締り得ないのは、昔も今もそれ程には違わない。 「公
序良俗」若しくは「公共の利益」に反しない限り、如何に大日本帝国憲法下と言えども簡単に摘発は出来ない。当
然の如く既存の資格者からの抗議や圧力も重なり、摘発側の焦燥は募るばかりであった。
所が新療法は当該治療効果の顕著な事と相俟って、爆発的民間の支持を獲得して行く。帝都東京は日本橋
牡蠣殻町の光線療法施術所では早朝から患者が門前市を成し 、「カイロプラクティック施術所」 の近くの「骨つ
ぎ」「あんま」は閑古鳥。後発の「超短波療法」は商品名「生命の魂」として電気の普及と共にブームとなる。しか
もその先行療法を「あはき柔整達資格者」は法律上の制約から、自己の施術に取り入れ得なかった。今日に続
く業権侵害等の争いの火種は此の時点で燻り始めていたのである。
基より新療法の行為中に既存の法に違反するものが存すれば司直は取り締った 。しかし大多数の事件は決
め手に欠ける、所謂証拠不充分なもので、現状に業を煮やした時の和歌山県知事が昭和4年内務省宛に「取り
締るべき規則を定めるつもりは無いか」 との主旨で判断を求めた。其れに対する内務省の回答が翌昭和5年の
警視庁令を誕生させるのである。(以下続く)
