天井 美宏
(あまのい よしひろ)
「偽装鑑定書の成立事情」の壱
1981年(昭和56年)11月26日の夕刻ニュースは「東京地方検察庁特捜部は、音
楽教師小村孝一(仮名)と楽器商紙田甲(仮名)の二人を、有印私文書偽造同行使の
疑いで逮捕しました。(以下略)」 と伝え、翌朝の新聞は1面又は3面のトップで同逮捕
と其の背景を可なり詳細に報じた。今日の如く ○○ 容疑者等の呼称では無く被疑者
呼び捨ての時代である 。小村と紙田は大森区検察庁で午前11時頃相次いで逮捕状
を執行され、其のまま小菅の東京拘置所に移送された。
「いやー、驚きましたよ。社長が検察に呼ばれて行ってるのは知ってましたが、突然
特捜が入って来て、テレビカメラも一緒。慌てて仕切り戸を閉めようとけども、俺の顔ハ
ッ キリとテレビに出た 。そして足止めで家宅捜索。社員は順番に色々聞かれ、俺なん
か東京地検まで行きました。嫌なもんですよ。でも内緒ですが碌な証拠は出なかった。
最大の収穫は偽鑑定書の束 、未だ書き込んで居ない物の押収でしょう。」 と当時を回
想するのは、事件当時紙田が社長を務めていたカンダ・アンド・カンパニー (当時は山
手線目黒駅前に所在 )社員で楽器修理(リペアー)を担当していた瀬川一光 (仮名)。
同時刻小村の音楽各種学校を兼ねた品川の自宅も捜索を受けていた。
此の逮捕が事件の発端である。 前回も述べたが「東京芸大」や「教授」の名は露ほ
どにも出て来ない。「有印私文書偽造同行使」 此れだけが逮捕容疑である。尤も逮捕
された二人は、逮捕状執行に際し夫々の担当検事から「そのうち詐欺も付けてやるか
らな」とは言われたらしいが・・・。
其の詐欺の話は別として、逮捕容疑のトップは「有印私文書偽装」。即ち、偽物の書
面(私文書)を作り、真正名義人の名前を偽造署名し、其処に偽の印鑑を捺印又はサ
インをして、真正な書面の如く見せかけた、と言うものだ。そして同行使とは、当該偽造
私文書を善意の第3者に真正な物 (本物) と偽って提示、即ち見せる事である。善く骨
董屋の親爺が自分達仲間で作った古文書風の物品を、嘘を承知で顧客に対し 「徳川
家康の真筆で押印もあるでしょう・・・掘り出し物ですよ」 等と言う様なもので、殆どの場
合其処には不当な利潤を得る目的が存在する。百円の殴り書きを「家康」のものと騙し
て十万円で売りつける。此れが立派な詐欺に当たるのは素人にも良く解るのだが 、逮
捕の二人は音楽家と楽器商。彼等は一体何を偽造したのか。
実は其の偽造品がやがて芸大と其処の教授に直結して行くのだが 、当該偽造私文
書とは所謂楽器に付随する所の楽器の品格証明書、サーティフィケイト (鑑定書) であ
り、其れも極めて権威のある米国の業者と鑑定人の物の偽造品だった。
前出瀬川の先輩格で 、紙田が信頼していた楽器製作者の茶戸満三は 「今だから言
えるけど、あの鑑定書のランバート・ウォルツァー(ウーリッツァー)と言うのは 、世界的
な ヴァイオリニストの殆どが信頼して楽器の修理調整を依頼していた最高権威の楽器
屋で、其の弦楽器のコレクションは収蔵内容と品質の点で 、世界のトップにあった。其
の権威に掛けての鑑定は精度・確度に於いても世界的に通用し、絶対的信頼を得てい
た。唯、其の頃の日本は相手にされていませんでしたが」と語る。そして、「 あのウォル
ツァーの鑑定書の付いた 、つまりウォルツァーが鑑定保証した銘器が、大量に日本に
来るなんて事を信じた奴が居るとは其れこそ信じられない 。あれは紙田達が所謂アク
セサリーとして作ったんです。一種の洒落ですよ、出だしは。其れが一人歩きした。」と、
異口同音に言うのだ 。確かに此れだけなら紙田の偽造も 、道義心を欠いた過剰顧客
サービスとも言えるのだが・・・。
所が東京芸大事件では 、紙田の偽造に係るウォルツァーの偽鑑定書が 、真正なバ
イオリン(ガダニーニ)に添付され芸大に納入されていた。この事件が「ガダニーニ事件
」とも呼ばれる由縁である。そして紙田からの此のガダニーニ納入を強力に援護したの
が、遅れて逮捕される芸大教授山野由夫(仮名)である。
紙田は此のガダニーニを芸大に売りたかった。しかし芸大の楽器購入は 「楽器選定
委員会」とか言う、芸大の偉い先生方の協議を経なくては成らない。「 いくら楽器が良く
ても、あの人達 (偉い先生方)に音は分からない。しかも全員が自分だけが責任を持た
されるのを恐れている。誰一人として楽器の鑑定なんて出来ません。頼りになるのは鑑
定書だけ。だから紙田さん 、此の楽器を入れたいのなら 、何でも良いから鑑定書が必
要なんです」。山野教授が本当にこう言ったかどうかは 、筆者として確証は無い 。此の
せりふは関係者証言の堆積である。しかし現実として本物の楽器 (バイオリン)に偽鑑
定書が付いていた 。そして芸大の選定委員会は、どうやら楽器自体よりも偽鑑定書を
本物と信じ、高額でガダニーニを買い入れた。もとより購入金員と成ったのは国民の税
金である。
洋楽のメッカでも当時(今でも似たようなものだが)のレベルは此の程度だった。楽器
の音で価値を決める事の出来る先生などは 、正に皆無に近かった 。そして音よりは作
者名に拘る日本人の性癖が、アクセサリーがアクセサリーでは無く、取引の重要なポイ
ントに格上げされる状況を生み出していた 。 当時大量に作られた偽鑑定書のフォーム
は英国のヒル商会の物で、作成したのは関西の楽器商と噂され、其の偽鑑定書から更
に偽鑑定書が偽造 (?) されている。そして此の粗悪な第2偽鑑定書をタイプ打ち販売
する悪徳業者があり、其れと釣るんだ裏販売ルートも実在した。ガダニーニ事件は其の
真打格とも言うべきか。(以下続く)
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